卒業式の思い出
3月は卒業の季節ですね。
というわけで、自分の卒業式の思い出を書きたいと思います。
まずは幼稚園の卒業式、というか卒園式・・・・・は全然覚えていません。
母の話によると、周りの保護者の中には感極まって泣いている人が多くいたようです。
子供は小さいうちほど手がかかるでしょうから、よくぞここまで成長してくれたな、と言う思いなのかもしれませんね。
小学校の卒業式は一番思い出に残っています。
6年間も過ごした学校ですから、やはり寂しい気持ちがありました。
練習を何度もやりましたが、本番は練習と比べ物にならないくらいの緊張感がありました。
卒業証書授与は一人一人名前が呼ばれ、登壇して受け取るという形でしたので尚更です。
そして終盤、「仰げば尊し」の斉唱では感極まり、泣き出す生徒達がいました。私も泣きそうになりました。
中学校の卒業式ではあまり感動しませんでした。
小学校に比べ、中学校は自由が少なく、先生たちは口うるさい、と思っていましたので、こんな所早く(さっさと)卒業したい、という気持ちが強く、やっと卒業できるよ、とむしろ清々したものです。
しかし、式の後、教室に戻り、担任の先生の最後の話を聞きながら泣きそうになりました。
若い男性の先生でしたが、私たちのクラスが初めての担任だった、皆の写真を胸のポケットに入れておく、という言葉を聞いた時に急に何かこみ上げ来たのです。
(この先生は若く歳が近いことと、また、あまり口うるさくなかったので、私は親しみを感じていたのでした。)
次に、高校の自分の卒業式の話を書く前に、自分が2年生の時、在校生つまり見送る側で出席した時の話を書きたいと思います。
一般的に、式の中で卒業生代表の言葉というのがありますね。文字通り、卒業生の代表が登壇し、色々と述べるものです。
この時の卒業生代表の方は、ごく一般的にやるように登壇すると白い紙を取り出し、原稿を読み始めました。
最初は入学した当時の思い出が述べられます。「3年前、桜の花の咲くころ・・・」といった感じです。そして、入学後に新入生を待ち構えている伝統的な行事、対面式や応援歌練習などについての思い出も述べていきます。
さらに様々な学校行事についても次々と順を追って述べられていきます。単にこういう行事がありました、と言うだけでなく、感想付きです。
(・・え?まさかこの人、この調子で3年分の思い出を延々としゃべるつもりか?・・・)
失礼ながら、私は眠気に襲われそのまま目を閉じ眠ってしまいました。
(知り合いでも何でもない人の思い出話など、退屈でしかありませんでした。)
・・・どのくらい眠ったか憶えていませんがふと目が覚めました。壇上を見ると、卒業生代表がまだ言葉を述べています。
内容はというと、2年生の修学旅行(秋)の思い出です。
(まだ半分か・・・)
私は再び眠りに落ちました・・・。
3年生になり、今度は自分が見送られる番になりましたが、小学校、中学校と比べ、段々緊張感も感動もなくなっていきました。
(中学校と同様、早く卒業したいという気持ちのほうが強かったのです。)
そして、式の途中、またしても眠くなり眠ってしまいました。(毎日の受験勉強で疲れていたに違いない、と言い訳しておきます。第2志望の大学の受験がまだ残っていました。)
ウトウトしている時、
「・・生、起立!」という声が聞こえました。私はビクッとして危うく立ち上がりそうになりました。周りからはクスクスと笑う声が聞こえてきます。
(危なかった・・・)
「在校生、起立!」のかけ声で、「卒業生」の自分が起立するところでした・・・。
大学の卒業式は思い出がありません。
なぜなら出席しなかったからです。
正確には、「出席できなかった」のです。
卒業後はある会社に入社することが決まっていましたが、その会社は3月の下旬に入社式があり、卒業式の日(平日)には既に仕事が始まっていたのです。
事務方の上長に、卒業式に出たいので休ませて欲しいと願い出ましたが、「欠勤になるよ」と冷たくあしらわれてしまいました。
「別に欠勤で構いません。」と言いたいところでしたが、入社早々周りとぶつかりたくないので卒業式は諦めたのでした。
(お世話になった先生や、クラスメートと最後に会って挨拶したかったのですが・・・)
卒業証書は大学に連絡し、宅配便で送ってもらいました。
以下、余談ではありますが、この会社とは最初から反りが合いませんでした。(学習塾ではありません。)
仕事で他の会社の人と会う都合上、名刺を作ってくれと言っても、「試用期間中だから名刺は作ってやれない」と言われたり(じゃあ本採用するつもりないのか?)、直属の上司には「残業は君が好きで勝手にやってることだから」と言われ(やらざるを得ないからやってるんですけど)、結果、残業(サービス残業含め)が月80時間近くまで増えたり(今でいう過労死ラインですね)。
そしてついに耐えきれなくなり、私は半年でこの会社の「卒業」を強行したのでした。